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第9話 900年の孤独と、勇者の誓い

Author: 東雲明
last update publish date: 2026-06-25 16:26:17

ザクリ、と鈍い音がした。

 俺の剣は、小型悪魔の肩をかすめただけだった。

 次の瞬間、黒い影が地面を蹴る。

 低く、速い。

 俺が剣を戻すより早く、腹に衝撃がめり込んだ。

「ぐっ……!」

 息が詰まった。

 足が浮く。

 背中から神殿の裏庭の石畳に叩きつけられ、肺の中の空気が全部逃げていく。

 視界が白く弾けた。

 それでも、握っていた剣だけは離さなかった。

 小型悪魔は、俺より頭一つ分小さい。

 なのに、速さも力も桁が違う。

 黒い皮膚。

 ぎょろりとした赤い目。

 裂けた口。

 訓練用だとルゥは言った。

 けれど、俺には十分すぎるほど化け物だった。

「立て」

 ルゥの声が飛んだ。

 神殿の裏庭には、朝の光が差している。

 白い柱。

 蔦の絡んだ壁。

 噴水の涼しい音。

 平和そうな景色の中で、俺だけが泥と汗にまみれていた。

「言われなくても……立つ」

 膝が笑っていた。

 腕も震えていた。

 それでも俺は、剣を杖みたいにして立ち上がった。

 小型悪魔が、喉の奥で笑うような音を立てる。

 馬鹿にされている。

 たぶん実際、馬鹿にされている。

 魔力ゼロの高校生が、勇者服だけ着せられて、剣を振っている。

 向こうからすれば、これ以上ない見世物だ。

 けれど、俺はもう決めていた。

 逃げない。

 ミユウを守ると決めた。

 だったら、今ここで膝をついている暇なんてない。

「もう一回だ」

 俺は剣を構え直した。

 ルゥの金色の目が、わずかに細くなる。

「雑魚のくせに、口だけは一人前ですね」

「雑魚だからやるんだよ」

 俺は荒い息のまま笑った。

「強いやつが努力したって普通だろ。弱い俺がやるから、意味がある」

 小型悪魔が跳んだ。

 今度は正面じゃない。

 左。

 そう思った瞬間、影が右へ流れた。

「くそっ!」

 俺は反射で剣を振る。

 空を切った。

 脇腹に爪が当たる。

 浅い。

 けれど、熱い痛みが走った。

 勇者服の布が裂れ、血が滲む。

 それでも、俺は下がらなかった。

 逃げるためじゃない。

 捕まえるために、一歩踏み込んだ。

「おおおっ!」

 左手で、小型悪魔の腕を掴む。

 爪が掌に食い込んだ。

 痛い。

 でも、離さない。

 右手の剣を短く持ち替え、全体重を乗せて突き出す。

 刃先が、小型悪魔の胸元をかすめた。

 黒い影が、初めて後ろへ跳んだ。

 ほんの少し。

 本当に、ほんの少しだけ。

 でも、下がらせた。

「……見たか」

 俺は肩で息をしながら言った。

「今、下がったぞ」

「調子に乗るな」

 ルゥの声は冷たい。

 けれど、さっきまでとは少し違って聞こえた。

 次の瞬間、小型悪魔が唸り声を上げて突進してきた。

 速い。

 まずい。

 身体が反応しない。

 それでも剣を上げようとした俺の前に、白い光が走った。

 小型悪魔の動きが止まる。

 見えない壁に弾かれたように、黒い身体が地面を転がった。

 ルゥが片手を上げていた。

「そこまでです」

「まだ、やれる」

「休めと言っている」

 ルゥの声が、裏庭の空気を切った。

 俺は言い返そうとして、失敗した。

 膝が勝手に折れる。

 石畳に片手をついた。

 息が苦しい。

 喉が焼けるみたいだった。

 ルゥがゆっくり近づいてくる。

「無茶と根性を履き違えないことです。今のお前は、気合いだけで立っている棒きれです。棒きれが折れたところで、ミユウ様は守れません」

「……言い方」

「事実です」

 ルゥは鼻で笑った。

 けれど、その視線はさっきより少しだけ長く、俺の剣を見ていた。

「ただし、棒きれにしては多少粘りました。ほんの少しだけ、見直してやらなくもありません」

「それ、褒めてるのか?」

「過大評価するな。休め」

 俺は剣を握ったまま、空を見上げた。

 悔しかった。

 小型悪魔一体に、まだ勝てない。

 勇者になりたいなんて言っておいて、現実はこの程度だ。

 けれど、不思議と心は折れていなかった。

 かすった。

 下がらせた。

 昨日の俺なら、それすらできなかった。

 なら、明日の俺はもう少し届く。

 そう思えるだけで、立ち上がる理由になる。

 神殿の中へ戻ると、静かな空気が身体を包んだ。

 白い壁には青い模様が走り、天井から淡い光が降っている。

 ここにいると、異世界に来たんだと嫌でも思い知らされる。

 俺は大きな鏡の前で立ち止まった。

 そこに映っていたのは、見慣れない俺だった。

 白と青を基調にした勇者服。

 肩には銀の飾り。

 胸元には小さな紋章。

 腰には剣。

 傷だらけで、泥だらけで、髪も乱れている。

 それなのに、服だけはやたら立派だった。

「本当に、見てくれだけは勇者だな」

 思わず呟いた。

 鏡の中の俺が、同じ顔で苦笑する。

 中身はまだ、ただの高校生だ。

 魔力はない。

 剣も下手だ。

 小型悪魔にも勝てない。

 だけど。

 俺は鏡の中の自分を睨んだ。

「見てくれだけで終わる気はない」

 その時、背後で小さな足音がした。

 振り返ると、ミユウが立っていた。

 眠そうな目をこすり、銀色の髪を肩にこぼしている。

 白い羽が小さく揺れた。

 まだ寝起きなのに、俺を見るなりぱっと顔を明るくする。

「龍夜くん!」

 ミユウは駆け寄ってきて、俺の前で立ち止まった。

 そして、目をきらきらさせた。

「すごい! 本当の勇者みたい!」

 その言葉は、胸にまっすぐ刺さった。

 馬鹿みたいに嬉しかった。

 けれど、すぐに気づく。

 ミユウの笑顔が、少しだけ遠慮がちだった。

 俺を褒めながら、俺の傷を見て、指先をぎゅっと握りしめている。

「怪我……してる」

「このくらい平気だ」

「平気じゃないよ」

 ミユウは俺の脇腹に手を伸ばしかけて、途中で止めた。

「治しても、いい?」

 その声は、いつものミユウらしくなかった。

 俺はそこで、昨日のことを思い出した。

 倒れたミユウ。

 寝言のように呟いた言葉。

 ――あの人がくる。

 そして、ルゥの声。

 ――ラフィセルだ。

 ――今ので気づかれた。

 ミユウの癒しの力は、ただ便利な力じゃない。

 誰かに狙われる理由になる。

 ミユウ自身を、ずっと苦しめてきたものでもある。

 俺は剣を壁に立てかけ、ミユウの前にしゃがんだ。

 目線を合わせる。

「ミユウ」

「なあに?」

「九百年前、何があった?」

 ミユウの肩が小さく跳ねた。

 廊下の空気が、急に冷たくなった気がした。

「……どうして?」

「昨日、うなされてた。あの人がくるって」

 ミユウは唇を噛んだ。

 俺は急がなかった。

 責めたいわけじゃない。

 知りたいだけでもない。

 この子が一人で抱えているものを、少しでも俺に渡してほしかった。

「言ったら楽になることもあるだろ」

 俺はできるだけ優しく言った。

「全部じゃなくていい。話せるところだけでいい。俺は、逃げない」

 ミユウの瞳が揺れた。

 明るくて、いつも人を助けることしか考えていないみたいな子。

 その奥に、深い夜みたいな色が見えた。

 やがてミユウは、小さく頷いた。

「……ルゥの家がね」

 その声は、今にも消えそうだった。

「すごく、あったかい場所だったの」

 ミユウの瞳が遠くを見る。

 俺の目の前にいるのに、九百年前のどこかへ戻っていくみたいだった。

「庭にね、小さな花がいっぱい咲いてた。ルゥは昔から偉そうで、わたしが花を摘もうとすると、『ミユウ様、その花は昨日も摘みました。少しは学習なさい』って言うの」

 俺は思わずルゥを見た。

 少し離れた柱のそばに、ルゥが立っていた。

 腕を組んで、何も言わない。

 ミユウは続けた。

「でも、ルゥのお母さんは笑ってくれた。『いいのよ、ミユウ様が来ると庭が明るくなるから』って。ルゥのお父さんは、大きくて、優しくて、わたしに焼き菓子をくれた。ルゥの弟は、わたしの羽を触りたがって、ルゥに怒られてた」

 ミユウの声が震える。

「みんな、優しかった」

 神殿の廊下が、いつの間にか遠くなっていた。

 俺はミユウの言葉を聞きながら、その家を想像していた。

 花の咲く庭。

 笑い声。

 小さな手。

 焼き菓子の甘い匂い。

 そこに、黒い影が落ちる。

「その日、朝から胸がざわざわしてたの。何か悪いことが起きるって、わかった。だから、わたし、走ったの。ルゥの家まで。誰にも言わないで、一人で」

 ミユウらしいと思った。

 危ないと考えるより先に走る。

 誰かを助けたいと思ったら、止まれない。

「森の道が、いつもより暗かった。鳥の声がしなかった。風も止まってた。家が見えた時、庭の花が踏み潰されてた」

 ミユウの手が震えた。

 俺は何も言えなかった。

「扉が、壊れてた。中に入ったら、家具が倒れてて、壁が黒く焦げてて……焼き菓子の匂いじゃなくて、煙の匂いがした」

 ミユウは目を閉じた。

「ルゥのお父さんが倒れてた。お母さんも。弟も。みんな、動かなかった」

 ルゥは動かなかった。

 けれど、その拳が強く握られているのが見えた。

「ルゥだけが、生きてたの。床の隅で、血だらけで、でも息をしてた。わたしを見て、言ったの」

 ミユウの声が、ひどく幼くなった。

「来るなって」

 俺の胸が締めつけられた。

「でも、行くよ。行くに決まってるよ。だって、ルゥが倒れてるんだもん。みんな倒れてるんだもん。わたし、助けなきゃって思った。全部、治さなきゃって」

 ミユウの白い羽が震えた。

「手を伸ばしたの。ルゥに。お父さんに。お母さんに。弟に。みんなに。お願い、戻ってきてって。まだ笑ってよって。もう一回、焼き菓子ちょうだいって。ルゥに怒られてもいいから、みんなで庭に出ようって」

 声が崩れていく。

「そしたら、光が出たの」

 ミユウの手のひらに、淡い光が宿った。

 今の光とは違う。

 優しいだけじゃない。

 どこか苦しそうな光だった。

「わたしの中から、どんどん力が出ていった。止まらなかった。痛かった。熱くて、怖くて、でも止めたくなかった。だって、止めたら、みんな帰ってこないって思ったから」

 ミユウは自分の胸を押さえた。

「ルゥの傷は塞がった。息も戻った。でも、他のみんなは……戻らなかった」

 廊下に沈黙が落ちた。

 誰も何も言わなかった。

 言えるはずがなかった。

「わたし、もっと力を出せば戻ると思った。もっと、もっとって。でもルゥが泣きながら叫んだの。『やめろ』って。『もういい』って。『お前まで壊れる』って」

 ミユウの頬を、涙が伝った。

「でも、やめられなかった。やめたら認めることになるから。みんながもういないって、認めることになるから」

 俺は拳を握った。

 痛いほど握った。

 ミユウは明るい。

 天真爛漫で、人助けが好きで、危険も考えずに突っ走る。

 でもそれは、ただ何も知らないからじゃない。

 助けられなかった痛みを知っているからだ。

 目の前で大切な人たちを失って、それでも手を伸ばし続けたからだ。

「気がついたら、わたしの身体は変わらなくなってた」

 ミユウは自分の手を見つめた。

「みんなは大人になっていくのに、わたしだけ止まったの。十三歳くらいの姿のまま。時間が、そこで止まっちゃったみたいに」

 ルゥが静かに口を開いた。

「ミユウ様の力は、命に触れすぎた。普通なら、その時点で消えていたでしょう。生き残っただけでも奇跡です」

 その声は、いつも通り丁寧で偉そうだった。

 けれど、少しだけ苦かった。

 ミユウは首を振る。

「奇跡じゃないよ。わたし、助けられなかったもん」

「違う」

 俺の声が、自分でも驚くほど強く響いた。

 ミユウが俺を見る。

 俺は立ち上がり、ミユウの前に進んだ。

「違うだろ」

「龍夜くん……?」

「ルゥは生きてる」

 俺はルゥを見た。

「お前が助けたから、ルゥはここにいる。偉そうに俺を雑魚呼ばわりして、休めって命令して、今もミユウのそばにいる」

 ルゥが少し眉を動かした。

「そこは褒めるところだけでよかったのですが」

「うるさい。今いいところなんだよ」

 俺はミユウへ向き直った。

「全部は救えなかったのかもしれない。でも、何もできなかったわけじゃない。お前は手を伸ばした。逃げなかった。怖くても、痛くても、大切な人を助けようとした」

 ミユウの瞳が大きく揺れる。

「それを、失敗だけみたいに言うな」

 涙がまたこぼれた。

 ミユウは笑おうとした。

 いつものように、明るく。

 けれど、今度はできなかった。

「でも……ラフィセルが来たの」

 その名前が出た瞬間、ルゥの空気が変わった。

「悪魔族の族長。黒い羽で、綺麗な顔をしてた。でも、目が怖かった。倒れた家族を見ても、ルゥを見ても、何とも思ってないみたいだった」

 ミユウの声が細くなる。

「わたしを見て、笑ったの。『その力は素晴らしい』って。『死すら拒む光か』って。『私のものになれば、世界の形を変えられる』って」

 俺の奥で、何かが熱くなった。

 怒りだった。

 静かで、重くて、燃えるような怒り。

「それからずっと、狙われてる。逃げても、隠れても、忘れたふりをしても、あの人は来る。わたしの力が欲しいから。わたしが、怖がる顔を見るのが楽しいから」

 ミユウは震える声で笑った。

「だからね、龍夜くん。わたし、本当は勇者服の龍夜くんを見て、すごく嬉しかったの。でも、怖くもなったの。龍夜くんまで、わたしのせいで傷ついたらどうしようって」

 俺はもう、我慢できなかった。

 ミユウを抱きしめた。

 小さな身体が、俺の胸の中でびくりと震える。

 白い羽が俺の腕に触れた。

 軽くて、あたたかかった。

「龍夜くん……」

「俺は、お前のせいで傷つくんじゃない」

 俺は強く言った。

「俺が決めて、ここにいる」

 ミユウの指が、俺の勇者服を掴んだ。

「でも、龍夜くんは魔力が……」

「ないな」

「悪魔は強いよ」

「知ってる」

「ラフィセルは、もっと強いよ」

「だろうな」

「怖くないの?」

 怖いに決まっている。

 小型悪魔一体に倒される俺が、悪魔族の族長を怖くないわけがない。

 でも、それを理由に下がったら、俺は俺を許せなくなる。

「怖い」

 俺は正直に言った。

「けど、お前が一人で怖がってきた九百年に比べたら、俺の怖さなんて大したことない」

 ミユウの息が止まった。

「俺は魔力がない。今は弱い。小型悪魔にも勝てない。だけど、弱いまま終わるつもりはない」

 俺はミユウの背中に手を置いた。

「ラフィセルがお前の力を物みたいに欲しがるなら、俺が叩き潰す。お前がもう逃げなくていいようにする。お前が笑いたい時に、何も考えず笑えるようにする」

 ミユウの涙が、俺の胸元を濡らした。

「俺は、そのために勇者になる」

 言葉にした瞬間、胸の奥で何かが決まった。

 異世界に召喚されたからじゃない。

 勇者服を着せられたからじゃない。

 誰かに選ばれたからでもない。

 俺が選んだ。

 俺が守ると決めた。

 だから、俺は勇者になる。

「龍夜くん……」

 ミユウは泣きながら、俺を見上げた。

 それから、くしゃっと笑った。

「やっぱり、龍夜くんはすごいね」

「まだすごくない」

「すごいよ」

 ミユウは涙を拭きながら、いつもの少し無茶な笑顔を取り戻そうとしていた。

「だって、わたしが怖い話したのに、逃げなかったもん」

「逃げるわけないだろ」

「それに、わたしを抱きしめてくれた」

 そこで俺は、自分がまだ抱きしめたままだと気づいた。

 慌てて腕を緩める。

「悪い」

「謝らなくていいよ。あったかかった」

 ミユウはそう言って笑った。

 胸の奥が、少し痛くなるくらい眩しい笑顔だった。

 ルゥがわざとらしく咳払いをした。

「感動のところ悪いですが、そろそろ現実的な話をしてもよろしいですか」

「お前、こういう時くらい空気読めよ」

「読んだ結果です。お前たちだけで浸っている間にも、ラフィセルは動きます」

 その名前に、俺は表情を引き締めた。

 ルゥは神殿の奥へ歩き出す。

「ついてきなさい」

 俺とミユウは顔を見合わせ、ルゥの後を追った。

 神殿の最奥には、古い地図が広げられた部屋があった。

 壁一面に大陸の地形が描かれ、赤い印がいくつも打たれている。

 その中央に、大きな都市の名があった。

 ラステル。

「王都ラステル」

 ルゥが地図を指した。

「ラフィセルは今、そこにいます」

「王都に?」

「ええ。悪魔族の族長が堂々と王都に潜んでいるなど、本来なら悪い冗談です。しかし、奴は九百年前からそういう男です。人の懐に入り、笑顔で毒を置く」

 ミユウの顔が少し強張った。

 俺は地図を見つめた。

 ここからラステルまで、かなり距離がある。

 森を抜け、川を越え、いくつかの町を通る道のりらしい。

「行く」

 俺は言った。

 ルゥがこちらを見る。

「即答ですか。お前、自分の実力を理解していますか」

「してる」

「小型悪魔にも勝てない」

「ああ」

「魔力はほぼない」

「知ってる」

「ラフィセルに会えば、今のお前など瞬きの間に消されます」

「だから、会うまでに強くなる」

 ルゥの目が細くなった。

 俺は地図から目を離さなかった。

「ここで待ってても、ラフィセルは来るんだろ。ミユウを狙って」

「来るでしょうね」

「だったら、こっちから行く」

 俺は拳を握った。

「守るっていうのは、隠れて震えることじゃない。相手の前に立つことだ。俺はまだ弱い。でも、弱いなら歩きながら強くなる。倒れたら起きる。斬られたら覚える。負けたら次は負けない」

 ミユウが俺を見る。

 その瞳に、光が戻っていく。

「俺はラステルへ行く。ラフィセルを倒す。ミユウの九百年を、そこで終わらせる」

 言い切った。

 怖さは消えていない。

 むしろ、さっきよりはっきりしている。

 相手は悪魔族の族長。

 九百年前からミユウを狙い続ける化け物。

 俺の剣なんて届かないかもしれない。

 魔力のない俺では、足元にも及ばないかもしれない。

 けれど、届かないなら届かせる。

 及ばないなら、這い上がる。

 俺はそういう勇者になる。

 ルゥはしばらく黙っていた。

 やがて、ふっと笑った。

「無謀ですね」

「知ってる」

「馬鹿ですね」

「それも知ってる」

「ですが」

 ルゥは地図の上に、小さな銀の駒を置いた。

 神殿からラステルへ続く道の上に。

「嫌いではありません」

 ミユウがぱっと顔を輝かせた。

「じゃあ、ルゥも一緒に来てくれるの?」

「当然です。ミユウ様をこの雑魚だけに任せるなど、世界を滅ぼすより危険です」

「おい」

「ですが」

 ルゥは俺を見た。

「お前が前に立つと言うなら、私はその背中を利用します。せいぜい折れずに立ちなさい」

「利用って言い方、他にないのかよ」

「ありません」

 いつもの調子に戻ったルゥを見て、ミユウが小さく笑った。

 その笑い声を聞いて、俺は思った。

 守りたい。

 この笑い声を。

 この明るさを。

 九百年前の炎と煙の中に置き去りにされた時間を、取り戻すために。

 俺は剣を手に取った。

 鏡に映った俺は、相変わらず見てくれだけの勇者だった。

 傷だらけで、泥だらけで、頼りない。

 けれど、目だけはさっきと違っていた。

 もう迷っていない。

 神殿の外へ出ると、風が吹いた。

 朝の光が、森を金色に染めている。

 遠くには、王都へ続く道が伸びていた。

 ミユウが隣に立つ。

 ルゥが少し後ろで腕を組む。

 俺は一歩、前に出た。

 魔力はない。

 力も足りない。

 それでも、俺には守りたい人がいる。

 だったら十分だ。

「行こう」

 俺は王都ラステルの方角を見据えた。

「ラフィセルを倒しに」

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    「魔界最後のアイドル、黒星アイドル・キラノクス!」 闇に沈んだアストリア城の中心で、三つの声だけが不気味なほど鮮明に重なった。 天井の遥か上には、夜空を引き裂いたような黒い穴が開いている。吹き下ろす風が砂埃をさらい、壁際の灯りを揺らしていた。見慣れた白い柱も闇に半分呑まれ、墓標のように並んでいる。 その穴から降り立った三人は、城には似つかわしくない黒づくめの衣装をまとっていた。 中央の青年は胸元へ手を添えて顎を上げ、右の少年は両手を顔の横で広げ、左の女は腰に手を当てて斜めに立つ。指先の角度まで揃った姿から、何度も練習してきたのだと嫌でも分かった。 水晶玉に映っていた三人だ。 だが、俺は何も返さなかった。 アストラル・オースを両手で握り、ミユウとルゥを背後に置ける位置へ半歩ずれる。金色の髪を風にあおられながら、制服の靴底で石を踏みしめた。 胸の奥では、消えない痛みが黒い鼓動となって脈打っている。深く息を吸うことさえ苦しい。それでも、剣先は三人から外さなかった。 さっき刃に現れたはずの青い光は、もうない。星の印も沈黙し、今のアストラル・オースは暗闇のわずかな光を冷たく返しているだけだった。「ちぇ、つまんないの。せっかく人間界の雑誌見て練習したのに」 右に立つ少年悪魔が頬を膨らませ、露骨に肩を落とした。だが、赤い瞳は壊す物を選ぶように城内を眺めている。こいつにとっては、アストリアも人間界も玩具でしかないのか。「龍夜、油断してはいけません。ふざけた姿ですが、あれらの気配は本物です」 低く告げたルゥが、ミユウの前へ腕を伸ばす。いつもの上から目線は残っていたが、声に遊びはなかった。もう片方の手は強く握られ、鋭い視線が三人の足運びを追っている。「分かってる」 短く答えた俺の背中で、白い翼がかすかに揺れた。 中央に立っていた青年悪魔が、整えていた姿勢をほどく。長い脚で一歩進むだけで、奇抜だった空気が消えた。笑みは薄いままなのに、剣を握る右手にも肩にも余計な力がない。 その目が俺の顔からアストラル・オースへ移り、再び戻る。「センターとして、このゼイヴがまずこのガキの相手をする。ルキュ、二人で下がっていろ」 ルキュは不満そうに唇を尖らせたが、逆らわずに右の柱際へ跳び退いた。女悪魔も黒い裾を揺らして左へ下がり、口元に指を添えてこちらを眺める。二人とも

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    「我が身体にに眠りしアストラル•オースよ、今我が手に」 ルゥが片手を前へ伸ばした瞬間、アストリア城の中心部にある広い空間へ、澄んだ水音が響き渡った。 湖畔から戻った頃には、すでに日は傾き始めていた。高い窓から入り込む夕日が白い石の床を斜めに照らし、俺たち三人の影を細長く引き伸ばしている。 ルゥの指先を囲むように、透き通った水が空中へ集まっていく。どこから流れてきたのかも分からない水は一滴も床へ落ちず、静かに揺れながら細い流れへ変わった。 一筋だった流れが二つに分かれ、さらに幾重にも重なる。 巻き上がった雫が青白い光を宿し、夕日の残る広い空間をゆっくりと舞った。石床へ映った光も水面のように揺らめき、壁や天井に淡い波紋を広げている。 やがて、流れの中心に真っすぐな輪郭が生まれた。 初めは曖昧だったそれが、次第に鋭い刃の形を取り始める。集まった水が薄く引き延ばされ、切っ先から鍔へ、鍔から柄へと姿を変えていった。 水音が少しずつ遠ざかる。 最後の雫が刃へ吸い込まれた時、ルゥの前には一本の剣が浮かんでいた。 長い刃は夕日と青白い光を同時に映し、冷たく透き通った輝きを放っている。派手な装飾などない。それでも、目を離せないほどの存在感があった。 この剣の前では、息をすることさえ試されている。 そんな錯覚を覚えるほど、周囲の空気が張りつめていた。「これが、俺の新しい剣……」 喉からこぼれた声が、広い空間の奥まで響いていく。 アストラル•オース。 この剣を手にする理由は、もう俺の中では決まっていた。 水晶玉に映った複数の影が、脳裏をかすめる。敵が何者なのかは分からない。いつ、この世界へ牙を剥くのかも分からない。 ただ一つ分かっているのは、危険がまだ終わっていないということだ。 そして俺は、元の世界へ戻らず、ここに残る道を選んだ。 誰かに頼まれたからじゃない。運命に押しつけられたからでもない。 ミユウを守りたい。 それを、俺自身が選んだ。 俺は剣へ歩み寄った。 制服の靴が石床を叩くたび、乾いた音が広がっていく。シャツの胸元では、魔王の呪いが存在を主張するように、不穏な鼓動を刻んでいた。 一度、脈が強く跳ねる。 次の鼓動が来るまで、妙に長い間が空く。 その直後、追いつこうとするように二度続けて胸の奥が打ちつけられた。 息を整え、足を

  • 異世界転生してもスキルはなかったけど、白い羽をもつ彼女を守るため最強の勇者目指します   第43話 夜明けに選んだ道

    「寒くないか?ミユウ」 腕の中で、ミユウの肩が小さく震えた。 返事はすぐには返ってこない。代わりに聞こえてきたのは、喉の奥で途切れる泣き声と、うまく整わない浅い呼吸だった。俺の制服を掴んだ指が、しゃくり上げるたびに強くなる。 湖から戻ったばかりの銀髪は水を含み、朝の淡い光を鈍く映していた。細い毛先から落ちた雫が俺の手首を伝い、濡れた草の上へ吸い込まれていく。 白い翼もすっかり重くなっていた。羽が何枚も重なって身体へ貼りつき、わずかに動くたび、冷たい水滴を落としている。 夜の名残をまとった風が、森の枝葉を揺らした。 湖面を覆っていた朝靄がゆっくりと流れ、その向こうから夜明けの光が細く差し込んでくる。けれど、光はまだ弱く、濡れたミユウの身体を温めるには足りなかった。「……だいじょうぶ」 胸元から聞こえた声は、今にも消えてしまいそうだった。 どう聞いても大丈夫じゃない。それでも大丈夫だと言い張ろうとするのは、俺に心配をかけたくないからなのか、それとも自分自身へ言い聞かせているのか。 問い詰める気にはなれなかった。 さっきミユウへ押し寄せたものが、ひとりで受け止められるほど軽くなかったことだけは分かる。知らないはずの光景と、恐ろしい声と、長すぎる時間の欠片。それらに呑み込まれかけたミユウは、今も俺の腕へ必死にしがみついている。 すべてを思い出したわけじゃない。 俺の名前すら、まだ戻っていない。 それでも、今のミユウをここへつなぎ止めることはできた。俺にできたのは、この腕を緩めず、何度でもそばにいると伝えることだけだった。 片腕でミユウの背を支えたまま、制服のジャケットへ手をかける。 濡れた翼を押さえつけないように注意しながら脱ぎ、冷えた肩から身体を包み込むように被せた。 夜通し森を歩き回ったせいで、ジャケットにも朝露の湿り気が残っている。それでも、湖の水に冷やされた服よりは、俺の体温が残っているはずだ。 ミユウは驚いたように顔を上げた。 泣き腫らした目が、俺とジャケットを交互に見る。やがて両手で前を掴み、残っている温もりを確かめるように、ゆっくりと胸元へ引き寄せた。「お兄さんの服、暖かい」 掠れた声に、ほんの少しだけ安堵が混じった。 ジャケットの襟へ頬を寄せる仕草を見た途端、胸の奥に張りつめていたものが、わずかにほどける。 夜の

  • 異世界転生してもスキルはなかったけど、白い羽をもつ彼女を守るため最強の勇者目指します   第42話

    ミユウ、どこだ。教えてくれ。 冷え切った夜気を吸い込むたび、乾いた喉の奥が鋭く痛んだ。 静まり返ったアストリアの石畳を、俺の靴音だけが絶え間なく打ち続けている。窓の灯りはほとんど消え、並んだ家々も、夜の底へ沈み込んだように動かない。「ミユウ!」 声を張り上げても、返ってくるのは建物の壁にぶつかった俺自身の声だけだった。 制服の胸元を片手で押さえながら、細い道へ入る。走るたびに自然に流れる金髪が額へかかり、汗に張りついた。乱暴に払いのけ、暗がりへ目を凝らす。 どこにもいない。 道の端にも、家々の間にも、身を隠せそうな物陰にも、小さな姿は見当たらなかった。 白い羽根ひとつ落ちていない。湿り始めた石畳に、追いかけられるような足跡もない。光も声も残さず、ミユウは夜の中へ消えていた。 まず、城の周囲を捜した。 壁に沿って走り、角を曲がるたびに速度を落として、城壁の陰や閉ざされた扉のそばへ目を向ける。怯えてうずくまっていないか。俺から逃げたあと、行く場所を失って立ち尽くしていないか。 けれど、見つからなかった。 城下へ戻り、別の道を選ぶ。 道が二つに分かれるたび、足が止まりかけた。 右か、左か。 選ばなかった方にミユウがいたらどうする。俺が反対へ走っている間にも、一人でさらに遠くへ行ってしまったら。 焦りが胸の内側へ爪を立てる。 それでも、迷っている時間はない。俺は暗い道の奥を見比べ、城の外へ近づく方を選んだ。 走り出した足音が、再び夜の静寂を壊す。「ミユウ、返事をしてくれ!」 叫びながら角を曲がる。 一瞬、道の先で何かが動いたように見えた。息を呑んで駆け寄るが、風にあおられた布が揺れているだけだった。「くそっ……」 肩で息をしながら、周囲を見回す。 昨夜、ミユウの瞳に浮かんでいた恐怖が離れなかった。 自分は俺の心臓を治せなかった。 自分は俺を殺そうとした。 ミユウの口からこぼれたのは、たった二つの断片だった。けれど、その言葉を口にしたときの顔は、今いる場所さえ見失ってしまいそうなほど青ざめていた。 俺のことを誰なのか分からないまま、それでも俺が苦しんだ光景だけを思い出した。 そんなものを抱えて、一人でどこへ行った。 俺が近づけば、また怯えさせるかもしれない。声をかけた瞬間、逃げられるかもしれない。 それでも捜す。

  • 異世界転生してもスキルはなかったけど、白い羽をもつ彼女を守るため最強の勇者目指します   第一話 異世界に召喚された青年

     教室の床が光った瞬間、俺の指先からスマホが滑り落ちた。 画面の中では勇者が剣を振り上げたまま止まり、机の脚も、上履きの先も、椅子の影も白く焼けていく。誰かのシャーペンが床に転がる音だけが、耳の奥でやけに大きく響いた。 次に膝へ触れたのは、教室の床ではなかった。 手のひらに食い込む、ざらついた石の冷たさ。肺に入った空気は、チョークではなく、古い香炉と雨上がりの石畳みたいな匂いがした。 俺は瀬野龍夜。漫画やゲームの世界に逃げ込み、異世界で無双する妄想ばかりしている、ごく普通の高校生だ。 ……なのに。 足元には白い線で描かれた巨大な円があった。文字、羽のような模様、薄く脈を打つ光。そ

  • 異世界転生してもスキルはなかったけど、白い羽をもつ彼女を守るため最強の勇者目指します   第7話 俺はもう、逃げない

    「やった……」 倒れたスライムが、青白い光になって芝生の上へ消えていく。 俺は剣を下ろした瞬間、その場に膝をつきそうになった。 息が荒い。 腕が痛い。 指先はまだ震えている。 それでも、俺は立っていた。 勝った。 たった一匹のスライムだ。 この世界では、子どもでも倒せるような魔物なのかもしれない。勇者を目指すなんて言っている人間が、ここで喜んでいいのかもわからない。 それでも。 俺にとっては、初めて自分の足で踏み出した一歩だった。「龍夜くん!」 ミユウが走ってきた。 次の瞬間、俺の両手をぎゅっと握る。「すごい! 本当にすごいよ! 龍夜くん、最後まで逃げなかった!

  • 異世界転生してもスキルはなかったけど、白い羽をもつ彼女を守るため最強の勇者目指します   第6話 雑魚と呼ばれた少年の一閃

    「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で

  • 異世界転生してもスキルはなかったけど、白い羽をもつ彼女を守るため最強の勇者目指します   第5話 俺がいる

    「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ

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