Masukザクリ、と鈍い音がした。
俺の剣は、小型悪魔の肩をかすめただけだった。
次の瞬間、黒い影が地面を蹴る。
低く、速い。
俺が剣を戻すより早く、腹に衝撃がめり込んだ。
「ぐっ……!」
息が詰まった。
足が浮く。
背中から神殿の裏庭の石畳に叩きつけられ、肺の中の空気が全部逃げていく。
視界が白く弾けた。
それでも、握っていた剣だけは離さなかった。
小型悪魔は、俺より頭一つ分小さい。
なのに、速さも力も桁が違う。
黒い皮膚。
ぎょろりとした赤い目。
裂けた口。
訓練用だとルゥは言った。
けれど、俺には十分すぎるほど化け物だった。
「立て」
ルゥの声が飛んだ。
神殿の裏庭には、朝の光が差している。
白い柱。
蔦の絡んだ壁。
噴水の涼しい音。
平和そうな景色の中で、俺だけが泥と汗にまみれていた。
「言われなくても……立つ」
膝が笑っていた。
腕も震えていた。
それでも俺は、剣を杖みたいにして立ち上がった。
小型悪魔が、喉の奥で笑うような音を立てる。
馬鹿にされている。
たぶん実際、馬鹿にされている。
魔力ゼロの高校生が、勇者服だけ着せられて、剣を振っている。
向こうからすれば、これ以上ない見世物だ。
けれど、俺はもう決めていた。
逃げない。
ミユウを守ると決めた。
だったら、今ここで膝をついている暇なんてない。
「もう一回だ」
俺は剣を構え直した。
ルゥの金色の目が、わずかに細くなる。
「雑魚のくせに、口だけは一人前ですね」
「雑魚だからやるんだよ」
俺は荒い息のまま笑った。
「強いやつが努力したって普通だろ。弱い俺がやるから、意味がある」
小型悪魔が跳んだ。
今度は正面じゃない。
左。
そう思った瞬間、影が右へ流れた。
「くそっ!」
俺は反射で剣を振る。
空を切った。
脇腹に爪が当たる。
浅い。
けれど、熱い痛みが走った。
勇者服の布が裂れ、血が滲む。
それでも、俺は下がらなかった。
逃げるためじゃない。
捕まえるために、一歩踏み込んだ。
「おおおっ!」
左手で、小型悪魔の腕を掴む。
爪が掌に食い込んだ。
痛い。
でも、離さない。
右手の剣を短く持ち替え、全体重を乗せて突き出す。
刃先が、小型悪魔の胸元をかすめた。
黒い影が、初めて後ろへ跳んだ。
ほんの少し。
本当に、ほんの少しだけ。
でも、下がらせた。
「……見たか」
俺は肩で息をしながら言った。
「今、下がったぞ」
「調子に乗るな」
ルゥの声は冷たい。
けれど、さっきまでとは少し違って聞こえた。
次の瞬間、小型悪魔が唸り声を上げて突進してきた。
速い。
まずい。
身体が反応しない。
それでも剣を上げようとした俺の前に、白い光が走った。
小型悪魔の動きが止まる。
見えない壁に弾かれたように、黒い身体が地面を転がった。
ルゥが片手を上げていた。
「そこまでです」
「まだ、やれる」
「休めと言っている」
ルゥの声が、裏庭の空気を切った。
俺は言い返そうとして、失敗した。
膝が勝手に折れる。
石畳に片手をついた。
息が苦しい。
喉が焼けるみたいだった。
ルゥがゆっくり近づいてくる。
「無茶と根性を履き違えないことです。今のお前は、気合いだけで立っている棒きれです。棒きれが折れたところで、ミユウ様は守れません」
「……言い方」
「事実です」
ルゥは鼻で笑った。
けれど、その視線はさっきより少しだけ長く、俺の剣を見ていた。
「ただし、棒きれにしては多少粘りました。ほんの少しだけ、見直してやらなくもありません」
「それ、褒めてるのか?」
「過大評価するな。休め」
俺は剣を握ったまま、空を見上げた。
悔しかった。
小型悪魔一体に、まだ勝てない。
勇者になりたいなんて言っておいて、現実はこの程度だ。
けれど、不思議と心は折れていなかった。
かすった。
下がらせた。
昨日の俺なら、それすらできなかった。
なら、明日の俺はもう少し届く。
そう思えるだけで、立ち上がる理由になる。
神殿の中へ戻ると、静かな空気が身体を包んだ。
白い壁には青い模様が走り、天井から淡い光が降っている。
ここにいると、異世界に来たんだと嫌でも思い知らされる。
俺は大きな鏡の前で立ち止まった。
そこに映っていたのは、見慣れない俺だった。
白と青を基調にした勇者服。
肩には銀の飾り。
胸元には小さな紋章。
腰には剣。
傷だらけで、泥だらけで、髪も乱れている。
それなのに、服だけはやたら立派だった。
「本当に、見てくれだけは勇者だな」
思わず呟いた。
鏡の中の俺が、同じ顔で苦笑する。
中身はまだ、ただの高校生だ。
魔力はない。
剣も下手だ。
小型悪魔にも勝てない。
だけど。
俺は鏡の中の自分を睨んだ。
「見てくれだけで終わる気はない」
その時、背後で小さな足音がした。
振り返ると、ミユウが立っていた。
眠そうな目をこすり、銀色の髪を肩にこぼしている。
白い羽が小さく揺れた。
まだ寝起きなのに、俺を見るなりぱっと顔を明るくする。
「龍夜くん!」
ミユウは駆け寄ってきて、俺の前で立ち止まった。
そして、目をきらきらさせた。
「すごい! 本当の勇者みたい!」
その言葉は、胸にまっすぐ刺さった。
馬鹿みたいに嬉しかった。
けれど、すぐに気づく。
ミユウの笑顔が、少しだけ遠慮がちだった。
俺を褒めながら、俺の傷を見て、指先をぎゅっと握りしめている。
「怪我……してる」
「このくらい平気だ」
「平気じゃないよ」
ミユウは俺の脇腹に手を伸ばしかけて、途中で止めた。
「治しても、いい?」
その声は、いつものミユウらしくなかった。
俺はそこで、昨日のことを思い出した。
倒れたミユウ。
寝言のように呟いた言葉。
――あの人がくる。
そして、ルゥの声。
――ラフィセルだ。
――今ので気づかれた。
ミユウの癒しの力は、ただ便利な力じゃない。
誰かに狙われる理由になる。
ミユウ自身を、ずっと苦しめてきたものでもある。
俺は剣を壁に立てかけ、ミユウの前にしゃがんだ。
目線を合わせる。
「ミユウ」
「なあに?」
「九百年前、何があった?」
ミユウの肩が小さく跳ねた。
廊下の空気が、急に冷たくなった気がした。
「……どうして?」
「昨日、うなされてた。あの人がくるって」
ミユウは唇を噛んだ。
俺は急がなかった。
責めたいわけじゃない。
知りたいだけでもない。
この子が一人で抱えているものを、少しでも俺に渡してほしかった。
「言ったら楽になることもあるだろ」
俺はできるだけ優しく言った。
「全部じゃなくていい。話せるところだけでいい。俺は、逃げない」
ミユウの瞳が揺れた。
明るくて、いつも人を助けることしか考えていないみたいな子。
その奥に、深い夜みたいな色が見えた。
やがてミユウは、小さく頷いた。
「……ルゥの家がね」
その声は、今にも消えそうだった。
「すごく、あったかい場所だったの」
ミユウの瞳が遠くを見る。
俺の目の前にいるのに、九百年前のどこかへ戻っていくみたいだった。
「庭にね、小さな花がいっぱい咲いてた。ルゥは昔から偉そうで、わたしが花を摘もうとすると、『ミユウ様、その花は昨日も摘みました。少しは学習なさい』って言うの」
俺は思わずルゥを見た。
少し離れた柱のそばに、ルゥが立っていた。
腕を組んで、何も言わない。
ミユウは続けた。
「でも、ルゥのお母さんは笑ってくれた。『いいのよ、ミユウ様が来ると庭が明るくなるから』って。ルゥのお父さんは、大きくて、優しくて、わたしに焼き菓子をくれた。ルゥの弟は、わたしの羽を触りたがって、ルゥに怒られてた」
ミユウの声が震える。
「みんな、優しかった」
神殿の廊下が、いつの間にか遠くなっていた。
俺はミユウの言葉を聞きながら、その家を想像していた。
花の咲く庭。
笑い声。
小さな手。
焼き菓子の甘い匂い。
そこに、黒い影が落ちる。
「その日、朝から胸がざわざわしてたの。何か悪いことが起きるって、わかった。だから、わたし、走ったの。ルゥの家まで。誰にも言わないで、一人で」
ミユウらしいと思った。
危ないと考えるより先に走る。
誰かを助けたいと思ったら、止まれない。
「森の道が、いつもより暗かった。鳥の声がしなかった。風も止まってた。家が見えた時、庭の花が踏み潰されてた」
ミユウの手が震えた。
俺は何も言えなかった。
「扉が、壊れてた。中に入ったら、家具が倒れてて、壁が黒く焦げてて……焼き菓子の匂いじゃなくて、煙の匂いがした」
ミユウは目を閉じた。
「ルゥのお父さんが倒れてた。お母さんも。弟も。みんな、動かなかった」
ルゥは動かなかった。
けれど、その拳が強く握られているのが見えた。
「ルゥだけが、生きてたの。床の隅で、血だらけで、でも息をしてた。わたしを見て、言ったの」
ミユウの声が、ひどく幼くなった。
「来るなって」
俺の胸が締めつけられた。
「でも、行くよ。行くに決まってるよ。だって、ルゥが倒れてるんだもん。みんな倒れてるんだもん。わたし、助けなきゃって思った。全部、治さなきゃって」
ミユウの白い羽が震えた。
「手を伸ばしたの。ルゥに。お父さんに。お母さんに。弟に。みんなに。お願い、戻ってきてって。まだ笑ってよって。もう一回、焼き菓子ちょうだいって。ルゥに怒られてもいいから、みんなで庭に出ようって」
声が崩れていく。
「そしたら、光が出たの」
ミユウの手のひらに、淡い光が宿った。
今の光とは違う。
優しいだけじゃない。
どこか苦しそうな光だった。
「わたしの中から、どんどん力が出ていった。止まらなかった。痛かった。熱くて、怖くて、でも止めたくなかった。だって、止めたら、みんな帰ってこないって思ったから」
ミユウは自分の胸を押さえた。
「ルゥの傷は塞がった。息も戻った。でも、他のみんなは……戻らなかった」
廊下に沈黙が落ちた。
誰も何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
「わたし、もっと力を出せば戻ると思った。もっと、もっとって。でもルゥが泣きながら叫んだの。『やめろ』って。『もういい』って。『お前まで壊れる』って」
ミユウの頬を、涙が伝った。
「でも、やめられなかった。やめたら認めることになるから。みんながもういないって、認めることになるから」
俺は拳を握った。
痛いほど握った。
ミユウは明るい。
天真爛漫で、人助けが好きで、危険も考えずに突っ走る。
でもそれは、ただ何も知らないからじゃない。
助けられなかった痛みを知っているからだ。
目の前で大切な人たちを失って、それでも手を伸ばし続けたからだ。
「気がついたら、わたしの身体は変わらなくなってた」
ミユウは自分の手を見つめた。
「みんなは大人になっていくのに、わたしだけ止まったの。十三歳くらいの姿のまま。時間が、そこで止まっちゃったみたいに」
ルゥが静かに口を開いた。
「ミユウ様の力は、命に触れすぎた。普通なら、その時点で消えていたでしょう。生き残っただけでも奇跡です」
その声は、いつも通り丁寧で偉そうだった。
けれど、少しだけ苦かった。
ミユウは首を振る。
「奇跡じゃないよ。わたし、助けられなかったもん」
「違う」
俺の声が、自分でも驚くほど強く響いた。
ミユウが俺を見る。
俺は立ち上がり、ミユウの前に進んだ。
「違うだろ」
「龍夜くん……?」
「ルゥは生きてる」
俺はルゥを見た。
「お前が助けたから、ルゥはここにいる。偉そうに俺を雑魚呼ばわりして、休めって命令して、今もミユウのそばにいる」
ルゥが少し眉を動かした。
「そこは褒めるところだけでよかったのですが」
「うるさい。今いいところなんだよ」
俺はミユウへ向き直った。
「全部は救えなかったのかもしれない。でも、何もできなかったわけじゃない。お前は手を伸ばした。逃げなかった。怖くても、痛くても、大切な人を助けようとした」
ミユウの瞳が大きく揺れる。
「それを、失敗だけみたいに言うな」
涙がまたこぼれた。
ミユウは笑おうとした。
いつものように、明るく。
けれど、今度はできなかった。
「でも……ラフィセルが来たの」
その名前が出た瞬間、ルゥの空気が変わった。
「悪魔族の族長。黒い羽で、綺麗な顔をしてた。でも、目が怖かった。倒れた家族を見ても、ルゥを見ても、何とも思ってないみたいだった」
ミユウの声が細くなる。
「わたしを見て、笑ったの。『その力は素晴らしい』って。『死すら拒む光か』って。『私のものになれば、世界の形を変えられる』って」
俺の奥で、何かが熱くなった。
怒りだった。
静かで、重くて、燃えるような怒り。
「それからずっと、狙われてる。逃げても、隠れても、忘れたふりをしても、あの人は来る。わたしの力が欲しいから。わたしが、怖がる顔を見るのが楽しいから」
ミユウは震える声で笑った。
「だからね、龍夜くん。わたし、本当は勇者服の龍夜くんを見て、すごく嬉しかったの。でも、怖くもなったの。龍夜くんまで、わたしのせいで傷ついたらどうしようって」
俺はもう、我慢できなかった。
ミユウを抱きしめた。
小さな身体が、俺の胸の中でびくりと震える。
白い羽が俺の腕に触れた。
軽くて、あたたかかった。
「龍夜くん……」
「俺は、お前のせいで傷つくんじゃない」
俺は強く言った。
「俺が決めて、ここにいる」
ミユウの指が、俺の勇者服を掴んだ。
「でも、龍夜くんは魔力が……」
「ないな」
「悪魔は強いよ」
「知ってる」
「ラフィセルは、もっと強いよ」
「だろうな」
「怖くないの?」
怖いに決まっている。
小型悪魔一体に倒される俺が、悪魔族の族長を怖くないわけがない。
でも、それを理由に下がったら、俺は俺を許せなくなる。
「怖い」
俺は正直に言った。
「けど、お前が一人で怖がってきた九百年に比べたら、俺の怖さなんて大したことない」
ミユウの息が止まった。
「俺は魔力がない。今は弱い。小型悪魔にも勝てない。だけど、弱いまま終わるつもりはない」
俺はミユウの背中に手を置いた。
「ラフィセルがお前の力を物みたいに欲しがるなら、俺が叩き潰す。お前がもう逃げなくていいようにする。お前が笑いたい時に、何も考えず笑えるようにする」
ミユウの涙が、俺の胸元を濡らした。
「俺は、そのために勇者になる」
言葉にした瞬間、胸の奥で何かが決まった。
異世界に召喚されたからじゃない。
勇者服を着せられたからじゃない。
誰かに選ばれたからでもない。
俺が選んだ。
俺が守ると決めた。
だから、俺は勇者になる。
「龍夜くん……」
ミユウは泣きながら、俺を見上げた。
それから、くしゃっと笑った。
「やっぱり、龍夜くんはすごいね」
「まだすごくない」
「すごいよ」
ミユウは涙を拭きながら、いつもの少し無茶な笑顔を取り戻そうとしていた。
「だって、わたしが怖い話したのに、逃げなかったもん」
「逃げるわけないだろ」
「それに、わたしを抱きしめてくれた」
そこで俺は、自分がまだ抱きしめたままだと気づいた。
慌てて腕を緩める。
「悪い」
「謝らなくていいよ。あったかかった」
ミユウはそう言って笑った。
胸の奥が、少し痛くなるくらい眩しい笑顔だった。
ルゥがわざとらしく咳払いをした。
「感動のところ悪いですが、そろそろ現実的な話をしてもよろしいですか」
「お前、こういう時くらい空気読めよ」
「読んだ結果です。お前たちだけで浸っている間にも、ラフィセルは動きます」
その名前に、俺は表情を引き締めた。
ルゥは神殿の奥へ歩き出す。
「ついてきなさい」
俺とミユウは顔を見合わせ、ルゥの後を追った。
神殿の最奥には、古い地図が広げられた部屋があった。
壁一面に大陸の地形が描かれ、赤い印がいくつも打たれている。
その中央に、大きな都市の名があった。
ラステル。
「王都ラステル」
ルゥが地図を指した。
「ラフィセルは今、そこにいます」
「王都に?」
「ええ。悪魔族の族長が堂々と王都に潜んでいるなど、本来なら悪い冗談です。しかし、奴は九百年前からそういう男です。人の懐に入り、笑顔で毒を置く」
ミユウの顔が少し強張った。
俺は地図を見つめた。
ここからラステルまで、かなり距離がある。
森を抜け、川を越え、いくつかの町を通る道のりらしい。
「行く」
俺は言った。
ルゥがこちらを見る。
「即答ですか。お前、自分の実力を理解していますか」
「してる」
「小型悪魔にも勝てない」
「ああ」
「魔力はほぼない」
「知ってる」
「ラフィセルに会えば、今のお前など瞬きの間に消されます」
「だから、会うまでに強くなる」
ルゥの目が細くなった。
俺は地図から目を離さなかった。
「ここで待ってても、ラフィセルは来るんだろ。ミユウを狙って」
「来るでしょうね」
「だったら、こっちから行く」
俺は拳を握った。
「守るっていうのは、隠れて震えることじゃない。相手の前に立つことだ。俺はまだ弱い。でも、弱いなら歩きながら強くなる。倒れたら起きる。斬られたら覚える。負けたら次は負けない」
ミユウが俺を見る。
その瞳に、光が戻っていく。
「俺はラステルへ行く。ラフィセルを倒す。ミユウの九百年を、そこで終わらせる」
言い切った。
怖さは消えていない。
むしろ、さっきよりはっきりしている。
相手は悪魔族の族長。
九百年前からミユウを狙い続ける化け物。
俺の剣なんて届かないかもしれない。
魔力のない俺では、足元にも及ばないかもしれない。
けれど、届かないなら届かせる。
及ばないなら、這い上がる。
俺はそういう勇者になる。
ルゥはしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「無謀ですね」
「知ってる」
「馬鹿ですね」
「それも知ってる」
「ですが」
ルゥは地図の上に、小さな銀の駒を置いた。
神殿からラステルへ続く道の上に。
「嫌いではありません」
ミユウがぱっと顔を輝かせた。
「じゃあ、ルゥも一緒に来てくれるの?」
「当然です。ミユウ様をこの雑魚だけに任せるなど、世界を滅ぼすより危険です」
「おい」
「ですが」
ルゥは俺を見た。
「お前が前に立つと言うなら、私はその背中を利用します。せいぜい折れずに立ちなさい」
「利用って言い方、他にないのかよ」
「ありません」
いつもの調子に戻ったルゥを見て、ミユウが小さく笑った。
その笑い声を聞いて、俺は思った。
守りたい。
この笑い声を。
この明るさを。
九百年前の炎と煙の中に置き去りにされた時間を、取り戻すために。
俺は剣を手に取った。
鏡に映った俺は、相変わらず見てくれだけの勇者だった。
傷だらけで、泥だらけで、頼りない。
けれど、目だけはさっきと違っていた。
もう迷っていない。
神殿の外へ出ると、風が吹いた。
朝の光が、森を金色に染めている。
遠くには、王都へ続く道が伸びていた。
ミユウが隣に立つ。
ルゥが少し後ろで腕を組む。
俺は一歩、前に出た。
魔力はない。
力も足りない。
それでも、俺には守りたい人がいる。
だったら十分だ。
「行こう」
俺は王都ラステルの方角を見据えた。
「ラフィセルを倒しに」
「愚か者!」 冷え切った声が、玉座の間の高い天井へ突き刺さり、幾重にも反響して降ってきた。 ミユウの指が、俺の首へ容赦なく食い込んでいる。細い腕からは想像もできない力で持ち上げられ、爪先は黒い石床を離れていた。喉を塞がれた肺が空気を求めても、唇から漏れるのは掠れた吐息だけだった。 目の前には、見慣れた銀色の髪がある。 けれど、その背から広がる翼は白くない。艶のない漆黒の羽根が重なり合い、俺たちの頭上を覆っていた。わずかに翼が揺れるたび、羽根の隙間から黒い魔力が粉雪のように舞い落ち、床へ触れる前に闇へ溶けていく。 明かりを遮られた俺とミユウの影は、足元でひとつに重なっていた。向かい合う二人の影には見えない。巨大な黒い翼を持つ怪物が、人間を呑み込もうとしているようにしか見えなかった。 遥か後方では、白骨を思わせる長い階段が闇の中を延び、その頂に据えられた玉座へラフィセルが腰かけている。 床が割れようと、柱が揺れようと、すぐには届かないほど遠く、高い場所だ。 ラフィセルは頬杖をつき、薄い笑みを浮かべて俺たちを見下ろしていた。ようやく獲物が罠の中心へ踏み込んだことを確かめるような、静かで冷たい眼差しだった。「あんなちっぽけで無力なわたしはもういないわ」 ミユウが吐き捨てる。 堕天の力によって成長した姿は十六歳ほどに見えた。すらりと伸びた手足も、大人びた輪郭も、俺の知る姿とは違う。だが、何より遠く感じたのは、真っ直ぐ俺を見つめる瞳だった。 かつてそこに宿っていた柔らかな光はなく、凍りついた夜の湖のような冷たさだけがある。 首を締め上げる指へ、さらに力が込められた。 耳の奥で鼓動が鳴る。息を吸えない苦しさに重なり、胸の中心を冷たい刃で抉られるような痛みが走った。視界の端が黒く欠け、玉座の間の景色が遠ざかっていく。 それでも、俺はミユウの目を見続けた。「自分のことをそんなに否定するな」 喉を絞られた声は、ひどく掠れていた。「小さかったからって、お前が無力だったわけじゃない。お前は誰かが困っていたら、自分の危険も考えずに飛び出してただろ」 俺の声が石壁にぶつかり、弱々しく戻ってくる。 ミユウは答えなかった。 その表情にも変化はない。ただ、俺の首へ触れている指先がわずかに震えたように見えた。そう見えただけかもしれない。確かめようと目を凝らすよ
「うそ…だろ。なんで…お前…そんな」 声が震えた。 広大な玉座の間へ放たれたはずの言葉は、黒い柱と高い天井に何度も反響し、最後には冷たい石の壁へ吸い込まれていった。 返事はない。 正面に立つミユウは、俺が知る白い翼の少女ではなかった。 銀色の髪は変わらない。細い頬も、透き通るような瞳も、何度も俺へ笑いかけてくれた顔も同じだ。 けれど、その背中から広がっている翼だけが、夜よりも深い黒に染まっていた。 一枚一枚の羽根から闇色の魔力がこぼれ落ち、床を這う霧となって彼女の足元へ絡みついている。青白い燭台の炎が黒い翼に遮られ、ミユウの顔には凍りついたような影が差していた。 違う。 姿だけじゃない。 俺を見る目に、あのあたたかさがない。「ミユウ……」 名前を呼び、一歩踏み出した瞬間、胸の奥で冷たい輪が縮んだ。「ぐっ……!」 心臓を内側から握り潰されるような衝撃に、身体が前へ折れる。 俺は胸を押さえた。螺旋階段を駆け上がっていたときから続いている異変が、玉座の間へ入ってから急激に強まっている。 乱れた呼吸が、やけに大きく響いた。 床へ膝が落ちそうになる。 それでも、つま先に力を込めた。 ここまで来たのは、倒れるためじゃない。 あいつを連れて帰るためだ。 俺が顔を上げると、ミユウは黒い翼の向こうから俺を見下ろしていた。澄んだ瞳には、心配も迷いも浮かんでいない。 やがて、薄い唇が冷たく動いた。「無様な姿ね」 聞き慣れた声だった。 だからこそ、その言葉は刃より深く胸へ突き刺さった。 ミユウは具合が悪そうな誰かを見つければ、考えるより先に駆け寄るようなやつだった。苦しむ相手を見下ろして笑うなんて、俺の知るミユウなら絶対にしない。「そんな顔で、そんなこと言うなよ……」 絞り出した声に、ミユウは答えなかった。 黒い翼をゆっくりと畳み、俺へ背を向ける。 そして玉座へ向かって歩き出した。 一歩ごとに鳴る靴音が、冷たい空間を重く打つ。 俺から離れ、あいつへ近づいていく。 玉座の間の最奥には、黒銀の装飾に囲まれた巨大な玉座がそびえていた。その上に腰かけるラフィセルは、頬杖をついたまま俺たちを見下ろしている。 怒りも警戒もない。 俺がここへ来ることも、ミユウが俺の前に立つことも、最初から知っていたような顔だった。 玉座へ続く床には
靴底が石段を打つたび、乾いた足音が螺旋階段の奥へ吸い込まれていった。 ひび割れた石壁は肩が触れそうなほど近く、壁に掛けられた古いランタンだけが、狭い足元を頼りなく照らしている。炎は風もないのに揺れ、俺の金色の髪と、ねじれながら伸びていく影を何度も闇へ沈めた。 右へ、さらに右へ。 いくら登っても同じ景色が続き、中央の吹き抜けは底のない穴のように口を開けている。錆びた手すりの向こうを覗いても、下層の明かりさえ見えない。踏み外した石片が暗闇へ落ちていったが、いつまで待っても音は返ってこなかった。 胸の奥で、鼓動がひとつ大きく跳ねた。 続くはずの次の鼓動が来ない。 心臓だけが取り残されたような空白のあと、遅れを取り戻そうとする激しい脈動が胸を内側から叩いた。冷たい輪で締めつけられる感覚が強まり、吸い込んだ息が喉の途中で止まる。「っ……まだだ」 俺は胸元を押さえていた手を離した。 痛みがあることはわかっている。体が普段どおりではないことも、無視できるほど鈍くはない。 それでも、止まる理由にはならなかった。 この階段の先にミユウがいる。それなら今の俺に必要なのは、痛みの正体を考えることではなく、一段でも多く登ることだ。 視界を遮る曲がり角へ踏み込んだ瞬間、頭上の闇が膨らんだ。 俺は反射的に右手を伸ばした。「アストラルフレイム!」 金色の光が指先へ集まり、剣の形を結ぶ。 直後、上段から振り下ろされた巨大な爪が刃へ激突した。 耳を刺す金属音とともに、狭い階段の空気が爆ぜる。両腕へ押し潰すような重圧がかかり、足元の石段から何本もの亀裂が伸びた。俺は奥歯を噛みしめ、沈みそうになった腰を支える。 敵は上にいる。 ただでさえ狭い場所で、体重まで乗せた一撃を受け続ければ押し切られる。 俺は刃をわずかに傾け、爪の力を外壁側へ逃がした。黒い爪がアストラルフレイムの表面を滑り、石壁へ深く突き刺さる。 石の破片が頬をかすめた。 敵の腕の下を潜り、二段上へ踏み込む。懐へ入れば巨体の力は使えない。そう判断して剣を振り上げようとしたが、切っ先が低い天井へ触れた。 ほんの一瞬、剣筋が止まる。 その隙を、敵は見逃さなかった。 横から黒い衝撃が叩き込まれた。「ぐっ!」 体が浮き、外壁へ弾き飛ばされる。 俺は激突する直前に左足を壁へ突き立てた。靴底が石を削
「ミユウ!」 閉じかけた魔界の門へ、俺は手を伸ばした。 赤黒い光の裂け目が、刃のように細くなっていく。その向こうで、ラフィセルがミユウを連れ去ろうとしていた。白い翼を押さえ込まれても、ミユウは振り返り、まっすぐに俺を見ていた。 怯えきった顔ではなかった。 俺が来ると信じている目だった。「龍夜くん!」 声が届いた直後、ラフィセルの姿が闇に溶けた。 門が閉じる。 ミユウの白い指先が見えなくなり、赤黒い光は一本の線となって消えた。俺の手は、何もない空間をつかんだ。「ミユウ!」 返事はない。 鏡の池を渡ってきた冷たい風が、金色の髪を揺らした。さっきまで門があった場所には、黒く焼けたような円形の跡だけが残っている。「ミユウ! 聞こえるか!」 俺は拳で門の跡を叩いた。 固い壁を殴ったような衝撃が腕を走る。それでも構わず、もう一度拳を振り上げた。「ミユウ!」「いつまでそうやって叫んでいるつもりですか」 背後から飛んできたルゥの声が、俺の拳を止めた。 振り返ると、ルゥは腕を組んで立っていた。いつもと変わらない、偉そうな顔だ。けれど、その視線は俺ではなく、閉じた門へ向けられている。「叫べば門が開くのですか。あなたの声が大きいことくらい、もう十分に分かりました」「分かってる。だけど……!」 言いかけた言葉をのみ込む。 このまま名前を呼び続けても、何も変わらない。 ミユウは最後まで俺を見ていた。助けを諦めた顔ではなかった。なら、俺がここで立ち止まる理由はない。 俺は目を閉じ、一度だけ深く息を吸った。 冷たい空気が胸へ入る。速くなっていた鼓動を数え、吐く息と一緒に焦りを押し出した。 今やるべきことは、嘆くことじゃない。 閉じた門を開けることだ。「ルゥ。この門は、もう開かないのか」「通常の方法では無理でしょう。向こう側から閉じられた門です。鍵穴すら残っていません」「通常の方法なら、か」 ルゥがわずかに眉を動かした。 俺は再び門の跡へ向き直り、今度は拳ではなく、開いた手のひらを押し当てた。 氷に触れたような冷たさが皮膚から染み込んでくる。 だが、その奥に別のものがあった。 小さな脈。 閉じた門の向こうで何かが鼓動しているように、かすかな振動が手のひらへ返ってくる。 意識を集中すると、俺の身体の内側にも、それに応える熱が生
ラステルへ続く街道が深い森へ差しかかる少し前、俺たちは道端で休んでいた旅商人から、不思議な池の話を聞いた。「ここから東へ半刻ほど歩いたところに、鏡みたいな池があるんだ」 旅商人は荷馬車の車輪へ新しい留め具を打ち込みながら、まるで近所の井戸について話すような気軽さで言った。「鏡みたい?」 ミユウがすぐに食いつく。「ああ。風が吹いても波一つ立たない。空も雲も、のぞき込んだ人間の顔も、何もかもそのまま映すそうだ。けど、ただ姿を映すだけじゃない。本当の姿、本当の心まで見せるんだとさ」「本当の心……」 ミユウはその言葉を確かめるように、胸の前で両手を重ねた。 穏やかな午後の日差しが、彼女の白い翼を淡く照らしている。旅商人の話を聞くまでは、道端に咲いている小さな花を楽しそうに眺めていたのに、今は池のことしか頭にないらしい。 その横顔を見た時点で、俺には次の言葉が予想できた。「行ってみたい!」「そう言うと思った」「だって、本当の心を映すのよ? すごくない?」「すごいかもしれないけど、今からラステルとは違う方向へ行くんだぞ」「半刻だけでしょう? それに、池の中で困っている人がいるかもしれないわ」「今の話のどこに、困っている人が出てきたんだよ」「詳しいことを話したがらない人がいるって言っていたでしょう? 怖い思いをしたのかもしれないわ」 ミユウは真剣な顔で旅商人を見る。「その池へ行った人は、みんな無事に戻ったんですか?」「少なくとも、俺が会った連中は生きて戻ってきたよ。ただ、池の中で何を見たのか聞いても、黙り込むばかりだったな。中には泣き出す者もいた」 俺は思わず森の方角へ目を向けた。 街道から外れた先には、日の光が届かないほど密集した木々が並んでいる。穏やかな風が吹いているのに、森の奥だけはひどく静かだった。「なるほど。本当の心を映すというより、心の奥へ直接作用する魔法かもしれませんね」 ルゥが腕を組み、考え込むように目を細めた。「珍しく慎重だな」「珍しくとは何です。私はいつでも物事を深く考えています」「じゃあ、行くのは反対か?」「誰がそのようなことを言いました?」 ルゥは少し顎を上げた。「人間の噂など、大半は尾ひれのついた作り話です。しかし、本当に精神へ作用する池ならば、魔法的な価値はあります。無知なあなたたちだけを行か
宿屋の一室には、戦いの気配を忘れさせるような静けさが満ちていた。 小さな窓から差し込む月明かりが、木の床へ細長く伸びている。壁際の燭台では、短くなった蝋燭の炎が夜風にかすかに揺れ、そのたびに壁へ映る二人分の影も、寄り添ったり離れたりを繰り返していた。 遠くから聞こえてくる川のせせらぎ。屋根の上を撫でていく風の音。時折、古い建物が思い出したように軋む。 それ以外には、何も聞こえない。 ついさっきまで剣を握り、悪魔と命を懸けて戦っていたことさえ、遠い出来事のように感じられた。 俺は部屋の中央に立ち、自分の両手を見下ろした。 手のひらには、剣を強く握り続けた跡が残っている。体のあちこちには鈍い痛みがあったが、立っていられないほどじゃない。傷の手当ても受けている。 それよりも強く感じているものがあった。 俺の内側を、静かに流れている力。 目に見えなくても、今ははっきりと分かる。 それは誰かから借りたものでも、俺の手に余る得体の知れないものでもなかった。確かに俺の中で生まれ、呼吸に合わせて全身を巡っている魔力だった。 以前の力は、怒りに呼応して一気に噴き出した。 髪は荒々しく逆立ち、燃え盛るような光が視界を埋め尽くした。強大である一方、少しでも気を抜けば自分まで飲み込まれそうな激しさがあった。 だが、今は違う。 自然に流れる金色の髪を指先でかき上げながら意識を集中させると、胸の奥で魔力がわずかに動いた。静かな湖面へ波紋が広がるように、俺の意思を待っている。 俺が望めば、この力は応えてくれる。 怒りに支配されなくてもいい。誰かを守りたいという思いを、俺自身が力へ変えられる。 戦いの中でつかんだその感覚は、まだ体に残っていた。 偶然じゃない。 俺はアストラルブレイヴの力を、自分の意思で制御した。 その事実を、もう疑うつもりはなかった。「龍夜くん」 呼びかけられ、俺は顔を上げた。 ミユウが、寝台のそばに立っていた。 薄い寝間着へ着替えた彼女の銀白色の髪が、月の光を受けて淡く輝いている。いつもの明るい笑顔を浮かべようとしているのに、その青い瞳は少し潤んでいた。 ミユウは俺の姿を確かめるように、金色の髪から頬、肩、腕へ視線を動かした。 俺が本当にここにいるのか。 今にも消えてしまわないか。 そんな不安が、言葉にされなくても伝わっ
「来いよ」 俺は剣を構えた。 怖くないわけじゃない。 足は重く、腕もまだ痺れている。 それでも、もう一度地面に転がされるために、ここへ立ったわけじゃない。 アストリアの神殿の裏庭。 白い石柱に囲まれた芝生の中央で、俺はルゥの召喚したスライムと向き合っていた。 青白く透き通った小さな魔物。 見た目だけなら、子どもでも倒せそうに見える。 だが、昨日の俺はこいつに振り回された。 剣は当たらない。 足は取られる。 動きは読めない。 この世界で魔力のない俺が、どれだけ無力なのか。 思い知らされるには十分すぎる相手だった。 けれど、俺は剣を下げなかった。 少し離れた場所で
「いやあぁっ!」 ミユウの悲鳴で、俺は目を覚ました。 胸に寄りかかっていた小さな身体が、びくんと跳ねる。白い翼がばさりと乱れ、俺の腕から逃げようとするみたいに暴れた。 一瞬、何が起きたのかわからなかった。 ここはアストリアの神殿にある、ミユウの部屋だ。 昨日、ルゥに連れていかれた裏庭で、俺はスライム相手に情けないほど転がされた。何度も倒れて、立ち上がって、最後は気合だけでどうにか前に出た。 そのあと、膝が笑ってまともに歩けなくなった俺を、ミユウがこの部屋まで連れてきた。「龍夜くん、少しだけ休んでいって」 そう言って、俺の手を離さなかった。 本当はすぐ自分の部屋に戻るつもりだ
「雑魚だろ。そんなひょろくて能力もないやつが救世主なんて信じられん」 ルゥの声が、神殿の裏庭に冷たく落ちた。 白い石畳の上で、俺は拳を握ったまま動けなかった。言い返したいのに、喉の奥が焼けつくばかりで、うまく声にならない。 天界アストリアに召喚されてから、俺は何度も自分の弱さを見せつけられている。 戦闘力はない。魔力もない。剣を握っても、手のひらに残るのは頼りない重さだけ。 それでも、ミユウを守るためにここへ来たのだと、俺は思いたかった。「ルゥ、そんな言い方しないで」 俺の隣で、ミユウがむっと頬をふくらませた。 背中の白い羽が、朝の光を受けてやわらかく揺れる。神殿の庭に咲いた
「お前、なんで俺の名前知ってるんだ」 俺の声は、自分で思ったより低く響いた。 白い石で造られた広間は、天井がやたらと高い。柱には羽を広げた女神みたいな彫刻が並び、壁の奥では青白い光がゆらゆら揺れていた。 ここが天界アストリアだとか、俺が勇者として召喚されたとか、正直まだ頭が追いついていない。 それでも、一つだけ引っかかっていた。 目の前の少女――ミユウ・ネフェルト。 俺よりずっと小柄で、銀色の髪をふわりと揺らし、背中に大きな白い翼を持った少女。初対面のはずなのに、こいつは当然のように俺の名前を呼んだ。 瀬野龍夜。 俺が名乗る前に。 その事実だけは、どんな不思議な景色よりも気







